脂肪吸引のために必要なものとは?

脂肪吸引のために必要なものとは?

わたしが今回のガン騒動で思い至った例では、見舞いと会葬がそれである。
 両者の共通項としては、ともに不例の相手(病者と死者)への表敬訪問ということ、行くことや来られることそのものに楽しいこと・得なこと・建設的なことはほとんどない点、したがって義理で渋々行くか本来とは別の目的で行くかが多くなること、来られたからといって本来の目的が全うされるものでもないこと、などである。
 「本来の目的」は、見舞うこと(機嫌を伺い、慰籍し、元気づける)や悼むこと(哀悼の意を表し、冥福を祈り、遺族を慰める)であろう。
行くほうは表向きそのつもりだし、来られるほうもその労を多とする。
見舞いも会葬も、洋の東西を問わず儀礼や慣習になっているところを見ると、人間の社会関係において病んだ者・死んだ者(むしろ残された者か?)への関わり方の基本らしい。
ネアンデルタール人が死者の上に花を播いたように、われわれは懇意の病者を見舞い、知己の葬儀に参集する。
わたしも、これまでに何度か人を見舞ったことがあり、今回は見舞われる側に回った。
何度か会葬に赴いたことがあり、そのうち赴かれる側に回るだろう。
いずれの機会にも、はっきり言ってあまり大きな意義を感じなかった。
 見舞いの場合、手ぶらで行くわけにもいかないから花や果物などを持っていく。
会葬の時は、喪服ないしそれに準ずる容儀を整え、しばしば香典のたぐいまで持参しなければならない。
見舞いでは、さも心配そうに、あるいは安心させるか元気づけるかするように振る舞わねばならず、会葬では、まことに愁傷な様子で悔やみを述べ、故人を偲び、かつ悼まねばならない。
しかし、これほど見舞い客や会葬者に努力と投資を強いるわりには、本物の病人や死者にとって実質的なメリットがほとんどないものも珍しい。
一種の儀式だからしかたがないといえばそうなのだが、見舞われた病人にあとで応対の疲れが出ることもある。
死者が会葬者の多寡に一喜一憂したとは聞いたことがない。
見舞いも会葬も、ふつう浮き世の義理で「行かないわけにもいかない」からか、病状への好奇心や斥候役のための見舞い、ないし不時に旧知が集まる好機として参列する葬儀といった不純な動機が混入してしまう。
 もちろん、見舞われることを喜ぶ病人もいる。
むしろ見舞われて素直に慰められ元気づけられるぐらいがノーマルな反応なのかもしれない。
中にはよほど人恋しいのか、入院中の退屈が紛れるといって見舞い客を大歓迎する向きさえいる。
しかし、見舞い客が少ないとまるで自分の社会的評価が低いかのように感じたり、病室に見舞いの品を陳列することで世間での人気をひけらかしたりするのは、どちらもあまり感心できないセンスである。
むしろ、〈病気療養中ぐらいソッとしておいてくれるほど良識のある縁戚・友人・同僚〉に恵まれたおかけで見舞い客が少ないほうが、誇るべきことかもしれないのに。
 他方葬儀に関しては、ひょっとすると死者も草葉の陰から会葬者一人ひとりをチェックしているのかもしれない。
死者がせずとも遺族はきっちりチェックしているであろうし、会葬者同士でも誰は来ていた彼は見なかったと目聡く気づくだろう。
そうなると浮き世の習いでつきあい上行かざるを得ず、浮き世の習いということになれば中身が薄まるのはしようがない。
これまでに見てきた葬儀で、会葬者の過半数は焼香などを待機している間中談笑していた。
それは不謹慎というより、むしろ自然である。
いくら知己とはいえ他人まで多数参加させておいて、そのうえ衷心から嘆き悲しませるのは無理というものだ。
仮に本気で嘆き悲しんでくれても、遺族は満足するかもしれないが、死んだ当人にすればもうどちらでもよいことなのである。
 このように考えてくると、さまざまな社会的拘束を外してみれば、見舞いや会葬など多くの人が行きたがっておらず、また来てほしがってもいないという骨格が透視されてくる。
まして真夏の炎天下や厳冬の風の日など、行くのも億劫、来てもらうのも恐縮で、誰にとっても災難みたいな風習である。
なぜ、廃止してしまわないのか怪冴であるが、たぶん誰も言い出せず、また誰かが言い出したところで待っていたとばかり天下挙げてやめてしまうわけにもいかないのだろう。
見舞いや会葬がしきたりということになれば頑固に墨守したがる人々も多い。
醇風美俗と考える者もいようし、自然な人情の発露と受け取って疑わない人もいるだろう。
それはそれでいいのだ。
喜んでくれる病人や、気をよくする遺族を見極めて参上してあげればよろしい。
しかし、わずらわしがる相手先の場合は、行かないのがエチケットという常識が確立されねばならない。
 もっとも世の中のことは一朝一夕にはいかないから、身近なところで個人的になんらかの工夫を凝らすしかない。
とりあえず、これからは見舞いを控え、入院は「おしのび」で、葬儀は密葬で、を勧めたい。
利害のからむ花屋・果物屋・寺院・葬儀屋などから輦楚を買うのは覚悟の上である。
 もうかれこれ十年以上になるだろうか、診療に際してインフォームドコンセントという言葉がしきりに言われるようになった。
インフォームされた、すなわち情報が与えられた上でのコンセント、同意が大切だと言われだした。
ということは、昔から患者に十分な情報を与えず、本人の同意もあいまいなまま診療がなされてきたことになる。
 無理もない。
医者の側にすれば素人には説明してもわかるまいといった見切りがあったし、患者側にしても説明されるとかえって混乱する心配もあった。
患者に情報を与えるとなると、専門的な知識と並行してそれを一般向けに翻訳したバージョンも準備しておかなければならない。
それに、ひょっとすると素人にもわかるように医学情報を説明するには一種の才能が必要かもしれない。
さらにわるいことに、説明がうまいからといって治療の腕がよいとはかどらない。
口下手だが手先は器用とか、やたら難解な物言いをするが仕事は熱心で丁寧とか、がある。
また、情報の中には治療的に不都合な内容のものもあるだろうから(真実が、つねに人間にとつて都合のよいものとはかぎらない)、医者の側に、与える情報に関して取捨選択の責任があるのかないのか。
結果を考慮せず全部ぶちまけてよいのか。
取捨選択というのは、しすぎると情報を与えるというより情報操作になってしまう。
逆に、取捨選択せずなにもかも患者に知らせて絶望させてしまうこともあろう。
このように考えてくると、インフォームドコンセントという掛け声が一概に好ましい流れを生むかどうか怪しくなってくる。
 もともと医療の民主化に発したものというより、患者側か医療サイドに治療的な判断を一任できないと思いだしたこと、また医療側ら一任されて結果がまずい場合に全責任を負うのがイヤなこと、要するに相互不信に端を発しているのではないか。
欧米、特に米国でやかましく言われたのも訴訟王国といったお国柄によるのであろう。
おそらく、医者だけで治療方針を決定し結果の全責任を負うことが、医療訴訟の多い国では不可能になってしまったのだ。

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