エステのリニューアル

イタリアの「少女」だから官能的で、一筋縄ではいかない。
「3歳、若返った!」これが、初めてマルニを着たときのわたしの感想だ。
若返ったのに、若作りではない。
あくまで大人としての若々しきをもらえた感じで、嬉しくなった。
襟のシャープな深い聞き、腰の丸みをきれいに見せるスカート、新鮮なグリーンやココア色。
コットンとファー、木とプラスチックといった自在な素材の組み合わせや、抽象絵画を思わせる大振りのアクセサリーなど他にはないデザインが面白く、そういうアイディアの斬新さも若々しきを生み出している源と思う。
決してわかりやすいファッションではないが、かえって飽きがこない。
コンスエロさんもまた、新しいイタリア・マダムのアイコンのような女性で、年齢を感じさせない可憐さと、育ちのよさからくる、ゆったりとした洗練を身につけていて憧れる女性のひとりだ。
日本には「可愛い大人」は増えてきたが、「大人の可愛らしき」をもっ女性はまだまだ少数。
しかしその共存は可能だと、コンスエロさんを見ていて思、っ。
マルニの服は、流行とは完全に一線を画しているから、気に入ったら半永久的に着ることができる。
なのに毎シーズン新しいアイディアがいっぱい登場する。
ブランドとしての「ベーシック」がしっかりありながら、変化していく。
だから古びない。
自分のスタイルもそうありたいものなのだが。
前衛少女の記憶箱プラダプラダが初めてプレタポルテを手がけたー989年は、ミラノに住んでちょうどー年が経った噴だった。
子育ての合聞に、何よりも楽しみだったのは、ガレリアのプラダ店に行くことだった。
広々とした重厚なインテリアの店内には、大きな旅行鞄が幾つもディスプレイされ、アンティークのオペラバッグや、エレガントな細巻きの傘、瞳甲のピルケースなヨーロッパ貴族の旅情、といった雰囲気に満ちていた。
そある日、その一角に、不思議な服が並んでいた。
蝉の羽のように透明で、はかなげどがひっそりと並べられ、こは完壁に非日常の空間だった。
いったい誰が着るんだろう当時のミラネーゼは今よりもずっとコンサパだったから、着るひとの顔が思い浮かばなな透ける素材のブラウスやワンピースたち。
これ、かった。
一方、街ではプラダのナイロンバッグが大流行していた。
黒や紺の堅いジャケットやパンツスーツに、ゴールドチェーンの持ち手がついたショルダーは華やかさを添え、若い人もマダムたちも、こぞってそれを持ちたがった。
売り場も人でいっぱいだった。
服のコーナーには誰もいないにもかかわらず。
人気ショルダーを持とうにも、飾られている服たちは繊細すぎて、そのバッグとはバランスが悪そうに思えた。
けれど今思えば、そこだけが異次元の世界のように風変わりな、ミウッチャ・プラダの核の部分だったのかもしれない。
プラダの服は、前衛なのだった。
国立ミラノ大学で政治を学んだ彼女は、老舗の鞄メーカーの三代目として裕福な暮らしをしながら、政治運動にも身を投じ、哲学書を読みふける少女だったという。
そんな女性が服作りをしたとき、哲学的な「なにか」をクリエーシヨンの中に盛り込みたいと思ったのは、しごく当然のことなのかもしれプラダの服が次の流行を決定する、と言われ続けてきたのも、女がどこへ行こうとしているかを見据える、前を見る目Hアヴアンギヤルドが彼女に備わっていたからだプラダは保守的なミラノのファッションに一石を投じたとともに、たとえ保守的な服を着ていたとしても、ひとたびそのバッグや靴を身につけさえすれば新しい女になれることを約束した。
いまやブランドというよりファッション・アイコンとして記号化されてしまったほどのプラダだが、毎年のコレクションにはいつも発見がある。
ああ、わたしたちはそっちの方向へ行きたかったのか、ということを思い知らされる。
もうひとつ、プラダにはデビュー当時から一貫している一つの世界観がある。
それは「少女の記憶」だ。
一人ベッドの中で読んだお伽噺、絹のパジャマのひんやりとした お皿の中に入れてもらったジエリーピーンズいくつになっても消えることのない、そんな甘やかな記憶の箱を抱えながら、プラダの女は明日に向かって、姿勢よく歩いていく。
人生の時を経てダナキャラン卯年代半ばにミラノから帰国して、突知、猛烈な忙しさに巻き込まれていったとき、ダナキャランはわたしの戦闘服だった。
夏と冬にネイピIブルーのパンツスーツをそれぞれ一着ずつ買い、からだのラインが自分ではないみたいに美しく見えるストレッチ素材のTシャツを何枚か揃え、翌年からは、少しずつスカートやプルオーバーを買い足していった。
時にはメタリックな銀色のマキシ丈のトレンチコートやゃ、小さな襟聞きで長袖の、ストイックな、でも、やはりからだのラインが「自分ではなくなる」紺色のソワレがそれに加わった。
当時のわたしのワードローブは、実に整然としていて完壁だった。
破調はひとつもなく、ニューヨークの賢いキャリアウーマンのそれのようだつた。
ダナの服を着ると、耳元で彼女が応援メッセージをささやくのが聞こえた。
「リラックスして。
ほら、あなたの胸から首にかけては完壁に美しいわ。
二の腕だって気にならない。
肩とウエストのラインは十分に知的よ。
背広の男たちとの会議で決して浮かずに、きっとその場の全員を魅了するわ。
会議が終わったら、走っていけば次に間に合う。
そのパンツ、細いけれどストレッチが効いているの。
全速力で走れるはずよ」パーティーやインタビュー取材を受けるときは、前がボートネックで後ろが深くVに聞いた艶やかなシルクの黒いプルオーバーが制服だった。
それを普段のパンツやスカートの上に着れば、瞬時にして「抑えの利いた」ソワレができあがる。
二つのパーティーを掛け持ちするときは、会場に向かうタクシーの中で前後を逆に着替え、襟聞きに合ったネックレスをバッグから取り出してつければ準備完了。
着ていて不安にならないデザインと質の良さ。
からだに沿ったラインなのにパターンに余裕があり、疲れない。
そして、ジャケットもパンツもスカートもインナーも、かげニューヨークのダナキャラン本社では、社運に臨調りが見え始めていたようだ。
わたし自身も仕事に余裕ができ、好きなものを好きなように着しかしそのころすでに、すべてがスイッチ可能の経済性。
それらは、働く女を援護射撃する優れた「皮膚」の一つだった。
るようになっていった。
もう戦闘服で武装する必要はなくなった頃、ふと思い出していつもの店に行くと、コーナーごとなくなっていた。
いつのまにか、彼女の服はわたしの中で忘れられたものになっていった。
新しい世紀が来て、経営がーVMHグループに変わり、ダナ・キヤラン自身はデザインに専念できるようになったためか、少しずつ息を吹き返していった。
久しぶりに表参道のブティックを覗いてみると、あの頃の戦闘モードのパンツスーツは影を潜め、でも着やすさやラインの美しさは変わらない服が並んでいた。
女のデザイナーの服の面白さは、そのひとの人生とデザインとがリンクしている、ということだろう。
だから要注意でもあって、デザイナーの価値観や生き方が合わない服を衝動的に買ってしまうと、結局は長く着られずに後悔する。
いつも日に焼けていて、年齢不詳で、シーツみたいな布を裸にざつくりとまとい、母親でもあり、純白のレースを愛するロマンチックな、この大柄のアメリカ女性に、わたしは服を通して親しみを感じていた。
彼女が大柄だから、大柄女のバランスの服がうまい。
でも、自分がダイエットして痩せたらとたんに服のサイズも細身になる、ゆったりとした大人の、そんな正直なところも。
ライオンみたいな髪をなびかせ、筋肉質の素足に高いヒールでがつがつとニューヨークの街を行く女。
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